5.白峰御陵 (崇徳天皇)

             

白峯御陵(五色台)

 善通寺周辺郷土史の最後は、五色台への中腹にある白峯御陵(しらみねごりょう)とその崇徳天皇(すとくてんのう)を紹介しましょう。

1 由来と概観
 五色台(国分台)に登る西側ルートの中腹に白峯御陵と白峯寺がとなり合わせでならんでいる。(白峯寺は四国霊場八十八か所の第八十一番札所であり、もちろん白峯御陵よりも歴史は古い。)第75代崇徳天皇は保元の乱(1156)により讃岐に流され、林田の雲井御所で3年間、府中の木の丸殿御所で6年間、合わせて9年間を過ごされ、46才で崩御(1164)された。御遺詔により、白峯で荼毘に付し、そこに御陵を築いたのであった。全国に天皇御陵多しといえども、こんなに遠隔の地にあるのは珍しい。また、これが悲劇を物語っているともいえる。

2 白峯御陵               
 坂出市青海町稚児ヶ嶽の上の白峯寺のとなりにある。敷地は1688坪(5570m)で、その中央高壇に御陵がある。石の玉垣を巡らし、その外部を木柵で囲んである。全面の石灯ろうは、文治年間に源頼朝が為義・為朝の菩提のために奉納したものといわれている。下壇の灯ろうには宮内省奉献のもの二基と旧高松藩主の松平頼重・同頼恭奉献のもの2基がある。御陵の周囲は、老松古杉が多く誠に千歳清浄の霊地である。御陵の霊威いかめしく、世々の崇敬はなはだ盛んである。  

 白峯御陵の南にある頓証寺殿は白峯寺の所属仏堂で崇徳天皇の御廟所である。頓証寺の右方はご本地仏十一面観音で、左方は鎮守白峯大権現をまつってある。明治11年、頓証寺を改めて白峯神社と称し、金比羅宮の摂社としたが、明治31年元に復して仏堂たることを許された。現在白峯神社は、金刀比羅宮の本殿と奥社の間にある。       

3 白峰宮
 坂出市西庄町弥蘇場(やそば)(八十八(やそば))の東方にある。祭神は崇徳天皇であり、上皇殯れんの聖地である。現在は八十八のところてんが有名である。当時、上皇は府中で崩御されその旨京都へ奏問して、そのご返事を待つ間、残暑のおりであったので、ご遺体の腐損を恐れて、この地の野沢井にお浸ししておいた。(この水が冷たいので八十八のところてんが美味しいのである。)そしてやがて白峯山に葬るべきの宣旨が届いたので、御殯柩は当地を発ち、高屋を経て白峯山に着き、荼毘に付し、御陵を築いた。
 
 当地はこのような霊跡であるので、二条天皇は宣旨を下して、社殿をたてられ、神霊をお鎮めになった。歴代天皇もあつくお祭りされ、維新の時まで毎年朝廷から祭粢料を下賜せられ、明治5年県社に列せられた。

4 煙の宮
 坂出市青海町稚児ヶ嶽の麓にある。祭神は崇徳天皇と藤原璋子(御生母)である。上皇の玉体を白峯山で荼毘に付したとき、その煙がたなびいてここに落ちたので、宮を建てて上皇をまつり、村民は氏神として崇敬した。 また、伝説では荼毘の煙はたなびいてここで輪を作り、その輪の中に尊号の文字が現れ、煙の消えた後には一つの玉が残っていた。これは上皇が大切にされていた玉であり、この玉は今も社殿に宝蔵されている。
 
 中央公論「讃岐紀行」(昭和52年)に次のような「雨月物語」の引用があった。「白峯には、この不幸な帝が暗殺され、火葬に付されたことを暗に示す、血の宮とか煙の宮とかいった、穏やかならぬ名を付けられたところもあった。上田秋成の雨月物語で特にその名を知られているところであるが、このあたりに崇徳上皇の怨霊が出るという言い伝えは秋成の物語よりも古くからあった。」

5 悲しみを語る上皇暗殺説
 崇徳上皇は出生から始まり、すべてが意のままならず、そして悲運の最後。崩御は46才の8月。自殺、病死説もあるが暗殺説が劇的である。二条天皇が三木近安に命じて殺害させたといい、近安は栗毛の馬に跨がり紫の手綱をさばいていた。殺害場所は柳の大木の下といい、その現場に石碑を大正時代に立てている。したがって、三木姓の人や、紫の着衣では白峰に登れないと伝えられている。 

 死去を京への報告の際、遺体を20日間、八十八場の霊水につけていたが生きているようだったといい、火葬にするため棺を運んでいったところ、高屋神社のところで血が滴り落ちて「血の宮」となり、白峯で荼毘に付したとき煙が天に上らず麓にさ迷いそこに「煙の宮」を作ったという。当初は讃岐院と呼ばれていたが、相次ぐ怪異に恐れをなした朝廷は治承元年(1177)に崇徳の院号を贈り京の御所跡に栗田宮を作り霊を慰めた。
 
 これは怨霊思想によるものだが、事件が相次いだ。延暦寺宗徒の強訴、京の大火、さらに妖星が出たという。二条天皇はあわてて頓証寺殿を作り、山門には上皇側に味方した源為義及び源為朝の二体をまつった。
 
 昭和39年9月21日、白峯御陵で八百年御式年祭が催され、勅使正親町公秀掌典、高松宮、宮内庁次官らが出席して悲劇の帝の霊を鎮めた。雅楽が流れ、頓証寺殿でも法要が営まれたが、この人達を驚かす事がこの日の未明に起きていた。林田小学校が午前零時出火、全焼したのである。林田小学校は、雲井御所の近くにある。そして、一時過ぎものすごい雷雨。この年、県下は干ばつだった。明治天皇がここから京都に霊を移した時もものすごい雨だったという。

6 崇徳天皇と「保元の乱」
 保元の乱は偶発ではなく悲運の歴史がある。
 崇徳天皇は鳥羽天皇の第一皇子として、元永2年(1119)にご誕生、御年4才で即位(1123)された。当時は鳥羽天皇の父白河法皇が院中で実権を握り政務をおとりになっていた。白河法皇が崩御されると、ついで鳥羽法皇が院政をお継ぎになった。
 
 永治元年(1141)崇徳天皇は鳥羽法皇の命により、心ならずも帝位を皇太弟にゆずられ、自らは上皇となられた。御年23才、在位18年であった。新帝は近衛天皇で、御年3才、御母は、美福門院藤原得子であった。しかし、近衛天皇は久寿2年(1155)御年17才で崩御された。御生母美福門院は天皇の死を以て、崇徳上皇の呪咀によるものだとして鳥羽上皇に迫り、上皇の皇子をさしおいて、上皇の母弟に皇位を継がせた。これが後白河天皇である。上皇の御胸中の無念ぶりが察せられる。
 
 保元元年(1156)鳥羽法皇が崩御され、上皇は御弔問のため鳥羽殿に赴かれたが、鳥羽法皇の遺詔だからと上皇のご入門を制止された。このことはいたく上皇のご機嫌を損じ、これが動因となって保元の乱がおこった。
 
 藤原頼長は上皇に復辟を勧め、上皇は軍兵を召集され、源為義・為朝等がこれに応じた。一方、天皇は平清盛、源義朝に命じて上皇の白河殿を襲わせた。四時間の激戦の結果、上皇の軍に利あらず、上皇は讃岐に配流された。
 
 保元の乱は、平安時代末期、源平武士の台頭する頃、天皇家及び藤原氏の家督相続争いに武士が巻き込まれ肉親縁者が二派にわかれて戦った。戦のポイントは、源為朝が夜襲を提唱したのに、藤原頼長が反対した。これに対し、天皇方では源義朝が同じ夜討をとなえ、これを成功させたところにある。

 遠因は、崇徳上皇誕生のとき既にあり、出生に不審をもった父鳥羽上皇に愛されなかったのが悲劇の始まりであったと伝えられている。また、保元の乱の遠因には当時の政治形態の特色である院政という複雑な環境があった。崇徳天皇はその名を顕仁(あきひと)といい元永二年(1119)鳥羽天皇と中宮の藤原璋子との間に生まれたとされている。

 この母の璋子は、当時絶大な権力を駆使し専制を欲しいままにしていた白河法皇(鳥羽天皇の父)の口利きで、鳥羽天皇の中宮として入内した。鳥羽天皇が16才で璋子が18才の時であった。しかし、彼女は素行上でとかくの風評が絶えず白河法皇との関係が周知の事実として史実に記されている。「崇徳院は白河法皇の子で、鳥羽天皇も十分承知し、叔父子と呼んでいた。」
 
 崇徳天皇の父である鳥羽上皇は、当時絶大な権力を持っていたその父白河法皇の意図で、わずか四才で天皇の位についたが、白河法皇は可愛がっていた顕仁親皇が同じ四才になると、まだ21才の青年の鳥羽天皇に譲位を強い、顕仁親皇を即位させ崇徳天皇とさせた。21才の若さで退位させられた鳥羽上皇は、璋子を中宮として押し付けられた事もあってか、法皇に強い不満を抱き、天皇退位前後から中宮の璋子ともうまく行かなくなる。法皇健在の間はその強大な力の前に手も足も出なかったが、白河法皇の死を境に、院政の権力は鳥羽院に移る。 
 
 上皇の座についた鳥羽院は、崇徳天皇への風当たりを強めていった。そして不和となった中宮の璋子を遠ざけ、代って太政大臣藤原朝実の娘得子(後の美福門院)を入内させ、その間に皇子躰仁(なりひと)をもうけた。 

 そして永治元年(1141)鳥羽上皇は22才になった崇徳天皇を退位させ、3才になったばかりの躰仁親王を天皇とし、鳥羽院政の安泰を図ったのであった。特に、この皇位をめぐる確執に拍車をかけたのが摂関家藤原一族の同族同士の権力争いであり、それぞれを新興の源平の武士たちが支え、父子・兄弟の骨肉の戦いを展開したのであった。