1.こんぴらさん

1 「こんぴらさん」の呼び名

 こんぴらさんは「金毘羅大権現」の昔から、「金刀比羅宮」の現代まで古い歴史と伝統を持って「讃岐(さぬき)香川」の名勝ナンバーワンであり、我が善通寺駐屯地から南へ約五㎞、車で約十分の圏内にあります。
 
 「琴平町」という町の名前は、こんぴらさんがある象頭山の山上が「平ら」で、風の日には木々が鳴って「琴」の音を奏でるからといわれています。このように「こんぴらさん」といっても正確に名称を読みまたは書ける人や意味を理解している人は少いのではないでしょうか。
 
 金刀比羅宮は象頭山(ぞうずざん)(標高521m)の中腹にあります。象頭山は瀬戸内海国立公園・名勝天然記念物に指定され、南北に長い台状の山で、南側半分を象頭山と呼び、北側半分を大麻山(おおさやま)(おおあさではない)(標高616m)と呼び、東の丸亀~満濃方向から見ると南半分が象の体の形をしていて、ちょうど象頭の目の位置に金刀比羅宮の御本宮があり、耳の位置に奥社があります。北側半分の大麻山台端には防衛マイクロを含むテレビ等の中継アンテナ群があり、その北側下に善通寺駐屯地があるわけです。余談になりますが、善通寺が「屏風が浦」と呼ばれるのは、ちょうど象頭山・大麻山という屏風の「裏側」にあるのでそう呼ばれたのであり、「海辺」を意味するわけではありません。

2 こんぴら石段
 こんぴらさんは「石段」で有名です。登り口から御本宮まで785段、奥社まで行くと1368段です。登り口には昔ながらの「石段かご」があり、登り5000円、往復6500円ほどで本職のかご屋さんが待機しています。石段の両側にはおみやげ屋がずらりと並んでいて、お客が通ればうるさいぐらいご案内があります。登り口付近の店では竹製の杖を無料で貸してくれますが、店の印が付いていて帰りに返却の際、おみやげを買うという成り行きになっております。
 
 近年は、この石段を走る「こんぴらマラソン」に全国的な人気が集まり、毎年大祭「お十日祭」(10月10日)の前の日曜日が年中行事になっており、新しい伝統をつくっています。コースは北欧風駅舎「JR琴平駅」前スタートで、表参道の石段コースを走って、子供・女子・40才以上は御本宮まで、一般男子は奥社までそれぞれ折り返し、スタートの琴平駅前がゴールで、いつも自衛隊員及びそのOBが上位を占めております。
 
 また、陸上自衛隊第110教育大隊としてもこのこんぴらの石段は、新隊員の教育訓練にとって欠かせることができないものになっています。新隊員の25㎞行進のコースは、駐屯地を出発して、裏参道~社務所下広場~石段~御本宮~石段~奥社~旧軍工兵道~大麻山キャンプ場~大池~駐屯地と設定しており、すべての新隊員が三か月間の教育期間に一度は戦闘服装で小銃・背のうを担いで「こんぴら参り」をするわけです。御本宮直前の「お百度石段」は最大斜度で、新隊員がいつも大いに張り切る所になっており、これを登り切ると御本宮の展望台広場に出て、讃岐平野が眼下に開け、遠くは瀬戸大橋まで視野に収め、この素晴らしい眺望は石段行進の疲れを一気に吹っ飛ばしてくれます。

3 こんぴら信仰
 「こんぴら舟々」の昔から、金刀比羅宮は船の神様、海(うみ)(海運・森羅万象を生み出す)の守護神として崇められました。御祭神は「大物主の神」であり、万物を司りすべての幸福幸運の縁を結ぶ大国主の命を称えた神名で、大国主の命の和魂(にぎみたま)を意味しており、海事・農業・殖産・医薬その他広汎な御神徳をもつ神様として人々の信仰を集めて参りました。
 
 伝説によれば、「こんぴらさん」の始まりは、以前から存在したこの山の神社に千年程前、クンピーラ(仏教の守護神、もともとはガンジス川に住むワニでヒンズー教の神)を招いて祭った事に由来するといわれています。聖なる川ガンジスからやってきたというので、クンピーラはやがて水とかかわりのある海運業・漁業・農業の神ということになった。が、やがて出雲から大物主の神(商業・豊作・医薬の神)が招かれてきて神仏混淆となり、そこへ中国から伝わった大黒天も加わって、クンピーラの権化ということになり、わが国の宗教史上まれに見られるおおらかな国際色宗教となりました。(1868年には、神仏分離令により大物主の神が主神と定められた。)
 
 神社としての形が整ったのは長保三年(1001年)に朝廷の命令で藤原実秋が本殿や鳥居などを改築してからとされており、明治以前は、「金毘羅大権現(こんぴらだいごんげん)」と呼ばれ、12世紀には、保元の乱で都を追われてこの地(坂出市府中)でとどまった崇徳天皇が金毘羅大権現を厚く崇敬されたので崩御後、永万2年(1165年)その霊も合祀され、御本宮と奥社の間に白峰神社が祭られました。(白峰御陵は坂出市南部の五色台中腹の四国霊場第81番白峰寺横にあります。)
 
 金毘羅大権現の霊験は、金光院別当や塩飽水軍たちの力によって全国に広められました。「お伊勢参り」が一般化する19世紀の初め頃から、東国より足を延ばして金毘羅大権現に参る者が多くなり、四国はもとより中国・九州からの参拝者もたくさんありました。日本全国の大衆が願いごとを叶えて下さる神様として身近な気安さを感じられる庶民的な神様として親しまれ、今日に至ったのです。
 
 この根強いこんぴら信仰は、国内各地をはじめ、遠くハワイにも大神の御分霊が新しくお祭りされており、これら信仰の現れがこんぴら逸話や絵馬堂や宝物館什器等に昔の人々の面影を漂わせております。


4 こんぴら参り
 瀬戸内海は、昔から海運・漁業が栄え、海の守り神様がこんぴらさんでしたから、これらの関係者がお参りしたのはさることながら、西国から山陽・瀬戸内海を経て京・江戸へ通った参勤交代のお大名行列もこんぴら参りをしました。そのため、御書院には大名の方々の逗留された客殿等があり、円山応挙の名画が各室襖に描かれ、(遊鶴図・虎図・竹林七賢図・山水図・瀑布図などが有名)お庭ではけまりの儀が催されました。
 
 四国を貫く高松・高知間の国道32号線は現在でも琴平(マルナカ四差路)がターニングポイントを形成しており、高松方向及び徳島・高知方向から琴平へ交通網が集約されていることになります。また、古くから「こんぴら五街道」といわれる道路網があり、高松街道、丸亀街道、多度津街道、阿波街道及び、伊予・土佐街道が全部琴平へ通じていて、それぞれの街道に沿って道標、石灯籠、丁石及び鳥居などの名残が多く往時を忍ばせています。これらは琴平町の神域に近付くにつれて顕著となり、琴電駅そばにある高燈籠はその象徴であります。
 
 鉄道は、現在JRの土讃線(高松~多度津~琴平~高知)と私鉄の琴電(高松~琴平)が走っております。約30年前まではもう一本の私鉄チンチン電車(琴参)が丸亀~琴平間を走っていましたが残念ながら現在廃線になっています。(筆者など防大受験の時は、この電車で丸亀~善通寺を往復したものでした。)
 
 讃岐の初詣場所の代表はまずこんぴらです。大晦日の12時(正月の零時)前後などは押すな押すなの人波で半歩前進の有様です。幼少の頃、こんぴら初詣に親子五人でお参りし、石段脇の写真屋で記念撮影したものをいつまでも大事にアルバムに飾ってあります。学生(防大)時代のある年には、後藤先輩の掛け声で、丸亀高校出身同窓生が十数名揃って上半身裸体の隊伍を組んでワッショイワッショイと丸亀~琴平~御本宮まで約20キロを駆足で初詣した思い出もあります。 
 
 御本宮前の展望広場から讃岐平野の眺望は讃岐富士(飯野山)土器山(青の山)丸亀城など筆舌に尽くし難いものですが、広場の南側には「絵馬堂」があり、これも見ごたえがあります。古い時代から新造船の模型や写真・記念品等、なかなか興味深く見飽きない物がたくさんあります。(海上自衛隊の護衛艦や潜水艦も多い。)
 
 石段両側のお土産屋のほかに、大門の内側に大傘をさした「五人百姓」というお土産屋があり、あめ等を売っています。五人百姓は古くから金毘羅大権現の神事に協力して経済的な援助を惜しまなかったので大門の内側については伝統的にこの五人百姓だけが立ち入り営業を許されているわけで、先祖代々の特権お土産屋なのです。
 
 石段から御本宮の間では、あちらこちらでハンドスピーカーを持って観光客グループを案内しているお土産屋やバス会社のガイドさんをよく見かけます。これはチャンスなのです。そばでいっしょに説明を聞くと、なるほどと思うことや面白い話をたくさんしてくれます。進行方向と速度が同じなら、自然を装ってグループについて行って話を全部聞けるという訳です。
 
 こうしてこんぴらさんには毎年370万人にも及ぶ参拝客が訪れています。こんぴら参りは、ゆっくり行って二~三時間、VIPご案内など特別に申し込めば、裏参道~社務所まで車で往復して登り降り約一時間といった所要です。いずれにしてもちょうどよい腹ごなしとなって、適度の空腹感を覚えます。そこでこんぴら街道は讃岐うどん屋だらけですので、お好みのうどん屋を選んで名物讃岐うどんをツルツルというのもまた格別でしょう。

5 こんぴら大芝居
 石段の表参道登り口を南にやや外れたところに「金毘羅歌舞伎(金丸座)」という芝居小屋があります。これは日本最古の劇場といわれ国の重要文化財に指定されており、江戸時代の歌舞伎小屋で全国で残っているのはここだけです。もう最近は有名になり過ぎて、前売券などすぐ売り切れてよほどのコネでもないと手にはいらない有様です。興行していない期間は、小屋の中を誰でも見学できるようになっていて案内のビデオ装置も内部に設置してあります。近くの「海の科学館」とともに手頃な見物コースとなっております。

6 こんぴら流し樽
 海の神様に対する信仰をあらわす手段として「流し樽」の風習があります。瀬戸内海を航行する船の海上安全を祈って、船員たちがこんぴらへの初穂を酒樽に入れ、「金毘羅大権現」ののぼりを立てて海に流すのです。それを見つけた沿岸の漁夫たちはその流し樽を持って金刀比羅宮への代参をする習わしで、これを届けた絵馬堂には入りきらないほどの流し樽があります。

7 掃海殉職者追悼式
 最後に、こんぴらさんで毎年五月、自衛隊が執り行なっている行事を紹介しましょう。海上自衛隊呉地方総監が主催者となって大門下壇の顕彰碑前広場で実施されており、筆者も昨年来出席させて頂き初めてその意義を知った次第であります。内外多数のご来賓や近隣の陸海自衛隊部隊長に海上自衛隊水兵さんの弔銃隊や音楽隊も参列した極めて厳粛なものであります。
 
 第二次大戦中、瀬戸内海及び日本近海には6万7千個におよぶ各種機雷が敷設されましたが戦後掃海部隊はこれらの膨大な機雷の掃海に従事して、総面積5000平方キロ、日本中の180か所にのぼる主要な航路・港湾泊地を啓開し、わが国産業復興に大きく貢献しました。この間、不幸にも79名の人が殉職され、これら掃海殉職隊員の偉業を永久に称えるため、海にゆかりの金刀比羅宮境内に「掃海殉職者顕彰碑」が建立され、毎年5月の最終土曜日にその碑前で追悼式が実施されているわけであります。