3.軍神 乃木希典

              

乃木将軍
 
 善通寺市は空海(弘法大師)の生誕地としてばかりではなく、軍神乃木希典(のぎまれすけ)で名高い。乃木将軍は明治31年善通寺に新設された陸軍第11師団の初代師団長であり、この地から日露戦争に出征した第3軍司令官であった。

 乃木大将の晩年、ある友人が訪ねて一筆を乞うたことがある。乃木大将は黙って二字を書いて手渡した。それは「壮絶」。もちろん旅順攻略作戦は文字どおり「壮絶」そのものであったが、この二字は、乃木大将の生涯そのものでもあったといえる。

 幼少にして片目を失明しながら、武士を志し出征して弟と恩師を敵として失い、西南戦争では痛恨の軍旗喪失、心機一転ドイツ留学後は誠心通ぜずたびたび左遷・休職、日露戦争第三軍司令官として出陣前に長男勝典の戦死、203高地陥落前に次男保典の戦死、凱旋のあとも非難轟々、安らぎは学習院院長時代、明治天皇御大葬の日に殉死。壮絶を極めた生涯であった。

1 いじめられっ子「無人(なきと)」時代
 乃木大将が生まれたのは、あのペリー艦隊が日本にやってくる数年前、嘉永2年(1849)11月11日、江戸麻布日ヶ窪の長州藩の屋敷で生まれた。父は長州藩士の乃木十郎希次、母は常陸土浦藩士の長谷川金太夫の長女寿子で、生まれると「無人」と名づけられました。二人の男の子を亡くした両親が「今度こそは元気に育ってほしい」という願いを込めて、「無人」と命名したわけです。

 しかし、幼いときの無人は、両親の期待に反して、近所の子供達から「無人は泣き人」とからかわれるほど、体の弱い、泣き虫な子で、ガキ大将にいじめられた時は、妹のキネに助けてもらうような弱虫でした。「これではとても武士の家を継ぐことはできない」と考えた両親の厳しいしつけを受けました。

 悪いことやいくじのないことをしたら、びしびしと容赦なくしかる毎日でした。父は、無人を体の丈夫な立派な武士に育てることが一番の夢でした。このため、無人の着るものは、いつも木綿の粗末な服ばかりで、冬の寒い日でも足袋を履かせてもらえませんでした。少しでも寒がっていようものなら「そんな事で立派な武士になれるか」と父親の恐ろしい声が飛んできて、あたまからザブーンと冷たい水をかけられます。そして、雪の降る中をはだしのままで、荒っぽい剣道の寒稽古が何時間も続きます。夕食が終わると、いつもの赤穂四十七士の義士物語が始まります。無人を赤穂の義士のような人間にしたかったからです。無人も義士物語を聞くのが楽しみでした。
 
 こうした希次の厳しい育て方を、母寿子もまた武家の娘らしく、無人荷は甘い顔一つしないで、いつも夫の希次と一緒になって無人をきたえ、育てたのでした。無人が人参を嫌いだといえば、寿子は毎日人参のおかずを出して、無人は何でも食べられるようになりました。

2 失明
 次の話は、無人の母を思う気持ちがよく伝わるエピソードです。ある夏の朝のこと無人が寝坊をしてなかなか起きてこないので、母寿子がさっさと蚊帳をはずしにかかったとき、運悪く蚊帳の金具が無人の左目にあたってしまいました。そのため、無人の左目は大きくはれあがり、はれが引いた時はもうほとんど目が見えなくなっていたのです。

 これが原因で無人の左目は失明し、二度とものを見ることができなくなったのです。しかし、母思いの無人は、このことを他の人には死ぬまで話しませんでした。 乃木大将のお通夜の晩に、妹のキネが初めて話をしてわかったものです。乃木大将は、片目になってからも剣術に打ち込み、馬術も人並み以上にうまくなったわけですから、本当に意志の強い努力家だったことがよくわかります。東京の乃木神社には、今でも、乃木大将が使った片目の双眼鏡があります。

3 元服改名「源三」時代
 無人は、15才の誕生日に源三と名を改め、父希次から元服の式をやってもらいましたが、このとき、固い決心をしたのです。「自分はもともと体力は十分ではない。その上、片目が悪い。武芸で人に勝ることは難しい。しかし、学問では誰にも負けない自信がある。だから学問を志そう。」と。

 しかし、希次がこの源三の志を許すはずはなく、これまで源三をきびいしく育ててきたのも全ては自分の意志を継いで、立派な武士になってほしかったわけです。子供は成長するとき、必ず一度や二度は、親との意見が合わないことがあります。源三もこの時、父の反対にもかかわらず、よくよく考えた末、ついに父母にはないしょで出奔、つまり家出を決意しました。源三が家出をしていった先は、萩に住む玉木文之進先生でした。ここで源三は父母とは違った教えを受けて、自分の本当に進むべき道をつかむことができました。

4 青年武士の初陣「文蔵(ぶんぞう)」時代
 源三は名前を文蔵と変えて、学問だけでなく、武芸にも優れた青年としてその名を高めていきます。そして、青年武士、文蔵の初陣のときがやってきます。文蔵が十八才の時でした。

 慶応2年(1866)6月、幕府軍の第二次長州征伐が始まりました。文蔵ら長州軍は幕府の大軍を藩内に一歩も入らせまいと、陣を構えました。文蔵は、報国隊員として、小倉口に押し寄せて行き、幕府軍に向かって行きました。敵の弾丸が飛んで来る中を数か月にわたって戦い、みごとに幕府軍を打ち破りました。文蔵はこのときの激しい戦いで、左足の甲に傷を負いましたが、あっぱれな初陣を飾ったのでした。
 日本は明治天皇を中心とする近代国家へと生まれ変わり、明治維新を迎えます。そして文蔵もまた、長州藩の藩士から、明治国家の軍人としての道を歩くことになりました。

5 晴れの陸軍少佐「希典(まれすけ)」と改名
 明治4年11月、文蔵のもとへ東京から出頭呼び出しが来ました。東京では山縣有朋らを中心に着々と近代的な軍隊を作ろうとしていました。文蔵も京都でフランス式軍隊の訓練を受けたあと、長州藩にもどって若い兵隊たちを教えていたのです。
 
 さて、上京した文蔵には陸軍少佐(大隊長)の辞令が待っていました。23才の若さで陸軍少佐ですから、文蔵の喜びは格別です。名前も希典と改め、明治国家のため立派な軍人となり、新しい気持ちで青年将校を志しました。
 
 乃木少佐ら軍人にとって最大の使命は、明治天皇を中心とした新しい国造りを助けることでした。明治政府は長く続いた鎖国政策のため世界の国々から大きく遅れていたのを取り返し、世界の進んだ国と肩を並べられる富国強兵の政策を目指していました。そして近代的な国家を作るため、これまでの藩を中心とした政治を改め、中央集権の廃藩置県を進め、中央政府で決めたことが地方のすみずみまで行き渡るようにしました。

 乃木少佐らの当面の任務は、各藩にある武器の接収により藩の力を弱め、中央統制の取れた軍事国家を作る事でしたが、こうした中央中心のやり方が次々と急いで行われたので、地方の旧武士層の間に不満の声が広まり、やがて明治維新の中心であった西郷隆盛らまでをもまきこんだ反政府運動(西南戦争)へと発展してしまいました。
 
 このあと、乃木少佐は次のように昇進をしていきます。明治5年2月、東京鎮台第3分営大弐(司令官)心得、明治6年4月、名古屋鎮台大弐心得、明治7年9月、陸軍卿伝令使(陸軍大臣の秘書兼副官)、そして明治8年12月にはわずか27才で熊本鎮台歩兵第14連隊長心得となりました。

6 弟や恩師との無念の別れ
 乃木少佐が小倉連隊長となって赴任した明治8、9年ころは全国各地に再び戦乱の嵐が吹き荒れようとしていました。むかし武士だった人達は、江戸時代から続いてきた「士農工商」という身分制度になれ過ぎて、市民平等という新しい世の中の情勢について行けない者が数多くでてきたことがその主な原因でした。彼等は、再び武器を持って反政府運動に立ち上がったのです。

 乃木少佐も、西郷隆盛をめぐる動きを警戒していましたが、それよりももっと身近な心配がありました。それは、西郷隆盛とならんで力を持っていた前原一誠が萩で反乱を起こそうとしていたからです。萩といえば乃木少佐を立派に育ててくれた恩師の玉木分之進先生が住んでおり、そこには愛する弟真人もまた養子となって住んでいます。乃木少佐の心配は的中してしまいました。弟真人は正誼と名前を変えて、萩の頼もしい青年武士として成長していたばかりか、前原党を指導する有力な幹部になっていたのでした。そのため、正誼の方から兄乃木少佐を訪ねて、前原党への参加を度々呼びかけるようになりました。

 今や、兄は政府軍の連隊を指揮し、弟は反政府運動を指導するという、全く逆の立場になってしまいました。こうして兄弟の双方の説得は前後六回似も及びますが、ついにお互いの考えは一致することなく、永遠の別れを迎えてしまいます。

 しかし、乃木連隊長には、九州各地方から不穏な動きが報じられ、明治9年10月熊本で神風連の乱が、続いて福岡で秋月の乱が起ってしまいました。乃木連隊長は部隊を率いて次々と反乱軍の討伐に向かいました。乃木連隊長の秋月の乱に対するみごとな奇襲作戦が終った時、萩の乱に参加した弟正誼の戦死と、生涯最大の恩師である玉木分之進先生の自決の悲報が続いて届きました。玉木先生は養子の正誼や多くの教え子が萩の乱に参加した責任を取って見事な割腹自殺を遂げたものでした。     

7 痛恨の軍旗喪失
 だが乃木連隊長は、悲嘆にくれる間もなく、次の西南戦争へと向かっていったのです。
明治10年2月18日、乃木連隊長は自ら第3大隊を率いて小倉から出陣します。敵はこれまでの秋月の乱や萩の乱とは比べものにならない大勢力の西郷軍です。22日には高瀬につきますが、兵は連日の強行軍で疲労が激しく、連隊長は酒を飲ませて一休みさせました。そして自分は兵の中から元気な者を60名集めて更に前進します。

 途中西郷軍が植木に進出していることを知り乃木隊は植木に入り、西郷軍と対峙します。午後7時ごろ、西郷軍の村田三助が指揮する300名もの抜刀隊が攻め込んで来ました。これに対する乃木隊は200名余りなので、死力を尽くして一進一退の白兵戦を展開しましたが、多勢に無勢の戦いは如何ともし難く、午後9時、乃木連隊はいったん撤退を決意しました。このとき大事な軍旗は河原林雄太少尉の腰に巻かせて、兵数十名とともに後方に退かせることにしました。ところが河原林少尉は退却の途中、不運にも戦死してしまいます。

 乃木連隊長は河原林少尉の戦死と軍旗が敵に奪われてしまったことを知らされ、大元帥陛下から賜った大切な軍旗を失って申し訳ないと自殺を図りますが部下に思い止どまらせられました。これが乃木大将生涯の痛恨事となった「軍旗喪失」です。軍旗を失った乃木少佐のショックは大きく、国のために生きようと決心するまでには、かなりの時間がかかりました。しばらくは友人仲間が「乃木はまるで自分から死に場所を求めて戦争をしているみたいだ」という異常な行動が続きました。このため、西南戦争が終わっても、乃木少佐の自分との戦いはますます激しくなりました。

8 苦悩の中で結婚
 西南戦争後の乃木中佐は、悩み多い日々で、軍旗を奪われた事が頭から片時も離れず、自分を責め、酒を飲んで気を紛らす日が続きましたが、そんな時、父希次がなくなりました。偶然にもその日は弟正誼の一周忌でもありました。周囲の人は、こんな姿の乃木中佐を見てとても心配します。「結婚をしたら少しは落ち着くのでは」との声がもち上がりました。

 明治11年乃木中佐が東京鎮台の第一連隊長となって上京したとき、鹿児島藩士の湯地定之の4女、静子と結婚しました。乃木中佐は30才、静子は20才でした。乃木夫婦は、母や、弟妹と一緒に結婚生活を始めましたが、今の時代のような甘い新婚生活ではありませんでした。結婚当初の静子夫人は、酒で気を紛らわせがちな夫と厳格な姑(寿子)の間に入ってとても苦労しました。でも静子夫人も夫の心のうちを理解するにつれて、内助の功を努めるようになりました。       

9 心機一転のドイツ留学
 明治19年11月、乃木少将のもとに待望の渡欧命令が下りました。目的はドイツ陸軍の実情を研究視察してそれを日本陸軍に反映させようというものです。それまでの日本陸軍は、幕府以来の伝統によってフランス式の軍隊制度を取り入れて、その普及発展に努めてきました。ところが明治三年の普仏戦争でフランスが負けたことで軍の内部ではずっとドイツ式に変えようと言う意見が強くなっていました。乃木少将のドイツ留学は、日本陸軍の将来を開く大切な任務だったわけです。

 明治20年1月、乃木少将と川上操六少将はベルリンに到着し、当時の参謀総長で有名な老将軍モルトケのもとを訪ねて、指導を受けドイツのいろいろな事を学びました。乃木少将のドイツ観は日本にいるとき考えていたものとまるで正反対で、驚きと発見ばかりでした。日本で想像していたドイツは、もっと華やかで、どこか文明に浮かれているような国でしたが、現実のドイツは、自国の伝統を大切にするとても質実な国であったのでした。

 乃木少将はドイツの軍隊と庶民の生活の中に、自分がかって明治維新を前に、藩の有志仲間と誓いあった古い武士道を感じたのです。そしてこの騎士道精神こそがフランスをも破る欧州一の強い軍隊を作り上げたに違いないと判断しました。乃木少将はドイツの生活で、目的であったドイツ軍の研究はもちろん、自分の武士道精神をもう一度開眼させるという実に大きなことを学んだのでした。

 帰国後の乃木少将が他人の目には全く別人になったというのも、乃木本人にとっては自分のこれから生きていく原点をつかんだことによる自然な姿だったのです。これからの生涯を天皇の軍隊のために捧げよう、それが軍旗を奪われた責任を取ることにもなる、そう乃木少将は遠くドイツの地で決心したのでした。

10 粛軍の意見書
 乃木少将はドイツ留学によって心の迷いを克服して、日本軍人の模範たるべく積極的な生き方をします。乃木少将をよく知る軍の同僚や友人は「宴会好きの乃木のことだから、さぞや西欧流のハイカラになって帰ってくるだろう」と思っていました。ところが帰国した乃木少将はハイカラどころか、極端な蛮カラになっていて、どこに行くにもきりりと軍服で押し通すという変わりようです。

 そして乃木少将はドイツ留学中に考えていたことを軍に訴えました。それは粛軍の意見書といえるもので、軍紀とは軍人一人一人の徳義から生まれるものであり、軍幹部の言動はいつも部下の模範となるような立派なものでなくてはいけないというものです。この意味から軍幹部は軍紀を象徴する軍服をいつも着て、部下の軍人精神を高める努力をすべきであると主張しました。
 
 しかし、軍の近代化を急ぐ軍の首脳にとっては乃木少将のこのような精神論は、かえって迷惑なこととして、以後さまざまなトラブルを引き起こすことになります。明治22年3月、乃木少将は熊本第11旅団長から東京の近衛第二旅団長に栄転して来たのを好機として、軍中央部に対して「粛軍の断行」を強く迫りました。このときの陸軍大臣は大山中将、次官は桂少将でした。

 だが乃木小将の意見は軍の近代化第一の主張の前に退けられます。乃木少将は昔から同郷後輩の顔馴染み桂少将とはどうしても主義主張が合いませんでした。桂少将と山上少将は陸軍中将に昇任しますが、乃木少将には名古屋の第五旅団長への辞令が届きます。乃木42才にして初めて味わった左遷でした。

11 辻占売り少年との出会い
 明治28年3月18日の夜、金沢に出張した乃木旅団長が人力車で県庁前を通りかかったとき、寒空の下で一人必死に声を張り上げながら辻占を売っている少年を見つけました。旅団長はかわいそうに思って、少年の身の上話を聞いてあげました。

 少年は祖母弟妹と4人ぐらしで、自分の細腕でみんなの生計を支えていると答えました。少年の話を聞いて乃木旅団長は、二円(少年の稼ぎは20銭でした)を紙に包んで与え、立派な人間になりなさいと励まして名前も告げずに立ち去りました。

 この話は、戦前の浪曲や講談などでさかんに紹介されました。昭和37年に辻占売りだった今越清三朗さんはNHKに名乗り出ました。今越さんは乃木旅団長にいわれたとおり、金箔師として立派に成功して、晩年は元気に社会奉仕を続け、91才で亡くなりました。辻占売り少年の銅像は今も六本木のテレビ朝日構内に残っています。

12 日清戦争へ出陣
 乃木少将は、このあと軍を休職して那須の農場で百姓仕事をします。大自然の中で二人の子供を教育し、一緒に大地に汗を名がしながらいつか分かってもらえるその日を待っていたのでした。

 乃木少将のこの願いは心ある人を中心に、軍の中央にもだんだんと広まっていきました。その理解者の一人が明治天皇でした。明治天皇は乃木少将の主義主張と人となりをよく理解され、「国の一大事の時は乃木を呼べ」といわれるぐらい信頼されていました。
 
 明治25年12月、乃木少将は東京の歩兵第一旅団長に復職し、日清戦争が始まり、日本陸海軍の快進撃が続く中、乃木少将の第一旅団にも出撃命令が下りました。当時東洋一といわれた「旅順口」を占領せよという命令です。乃木少将の力は戦場で遺憾なく発揮されました。
 
 14000人の清国兵が百余門の火砲を備えて守っていた旅順口に向かって突撃を開始し、第一の堅牢である椅子山を正面攻撃、続いて松樹山、二龍山、鶏冠山を次々に攻め落とし東洋一の要塞もわずか一日で陥落してしまいました。
 
 乃木旅団の勇気ある攻撃などによって日清戦争は大勝利に終り、明治28年4月の下関条約によって、遼東半島と台湾を譲り受けましたが、三国干渉により遼東半島を清国に返環しました。いずれにせよ、乃木少将の見事な指揮は勇名を一段と高め、少将から中将へと昇任しました。 

13 台湾総督就任
 下関条約で日本の領土となった台湾をどう統治するかが問題でした。当時はまだ野蛮な未開の島で、大陸から渡ってきた中国人と昔から住み着いている原住民(高砂族)との間でいつも紛争が続いていました。乃木中将はこの厄介な台湾の島を統治する「台湾総督」に選ばれました。乃木中将は台湾の土になろうと決心しました。そして中将の決意を知った老母寿子までもお前がその気なら私も一緒に行きましょうと一家をあげての赴任となりました。その寿子も2か月後マラリアにかかり亡くなってしまいました。
 
 乃木中将は台湾島民の治安の維持と民生の安定のために全力を注ぎましたが、日本から一攫千金を夢見て台湾に渡って来た商売人達の横暴振りや、総督府の役人たちの腐敗のひどさに怒り、日本の軍隊に粛軍を求めたときと同じように台湾の綱紀の粛正に努めようとしました。役人に清廉潔白、質素倹約な生活をさせるため、自分からその模範を示し、粗末な官邸に住んで、余分な贈物や意味のない宴会は一切止めさせ、日本と台湾の役人が心を一つにした徳のある政治を目指しました。 

 しかし、中将が「台湾の土になる」覚悟の台湾統治でしたが、結局は理解のない役人によって阻まれ、明治30年2月、無念の涙を飲んで東京へ引き上げました。


14 「乃木はどうしているのか」
 明治31年10月、明治天皇が桂陸軍大臣を呼んで、「乃木は久しく休職しているようだがどうするつもりか」とお聞きになりました。明治天皇は、乃木中将が台湾総督を辞めてから静かに休職生活を送っていたのを心にかけていたのでした。「実は陛下、困っております。台湾総督まで勤めた乃木を、新設の第十一師団長に持ってもいけませんので」と具申しました。

 すると陛下は、直ちに岡沢侍従武官長を通じて、乃木中将に御意を伝えました。このことを聞いた乃木中将は、「陛下がこんなにまで自分のことを心配して下さる」と感激して、「お召しとあらば、少尉でも下士とでもなって馳せ参じます。」と答え、同年、乃木中将は香川県善通寺に新しくできた第11師団長となりました。そして陛下のためにも、日本陸軍の模範的な師団を作ろうと決意しました。このとき、乃木中将の頭の中にはロシア軍のことがありました。     

15 第11師団の備え
 そこで乃木中将は、新しくできた第十一師団を、長年自分が考えてきた通りの軍隊に育てようとします。朝から晩までいつも兵と一緒に生活して、苦楽を共にしました。中将は金倉寺に下宿して、毎朝1里半の道のりを善通寺の師団まで馬で通いました。朝はまだ暗いうちに起き、誰よりも早く師団長室に着きました。演習の時は部下と同じ布団で寝起きを共にし、働く時もかんかんと照りつける太陽の下で、一兵士と同じように汗をかきました。

 また軍旗祭などの楽しい宴会では、将兵の先頭に立って、大声で軍歌を歌ったり、何をするにも将兵と苦楽を共にすることによって師団全員の心をつかもうとしました。それでも兵士たちが思うように動いてくれないときは容赦なく叱り、これでもかというぐらい強く反省を求めました。
 
 第11師団ができた頃は、まだ日清戦争の戦勝気分が続いていて、兵士たちにも日本の軍隊は強いんだという安心感がありました。このため乃木中将は兵士たちの気の緩みを正すため、夜非常呼集をかけて戦闘準備をさせたり、休み時間にいきなり集合させ点検をしたりしました。こうして1年が過ぎる頃には、ロシア軍と十分戦えるような精鋭部隊が出来上がりました。乃木中将は、自分が苦楽をともにして作った師団を率いて、ロシア軍と堂々と戦う日がくることを待っているかのようでもありました。

16 日露戦争勃発・長男「勝典」の戦死  
 日本国中が心配していた日露戦争がついに始まりました。日本国民は日清戦争の三国干渉以来、ロシアへの反感を強め、心を一つにして大国に立ち向かおうとしていました。こうした国民の願いは日清戦争で大活躍した乃木中将への期待となって高まりました。
 
 明治37年(1904)1月13日、日本はロシアに最後の通告をし、2月5日国交断絶、同10日の宣戦布告をへて、宿命の日露戦争に突入しました。戦友、そして息子の勝典と保典も次々と戦場へ出征していきました。同年5月2日、乃木中将にも命が下り、それも日露決戦の剣が峰とされる旅順攻略のために編成された第三軍の司令官としての出陣です。「それにしても、また旅順とは」改めて日清戦争以来の因縁の戦場を思わずにはいられませんでした。
 
 乃木中将は出発の時、静子夫人に、「父子三人が戦争に行くのだから、誰が先に死んでも棺桶が三つ揃うまで葬式は出すな。」という別れの言葉を残し、戦場へ向かいました。ところが、出航を目前に控えた5月30日、長男の勝典が南山の戦闘で戦死したとの悲報を受けとりました。しかし、乃木中将は日記にただ一言「他言せず」と書き残し、我が子の死んだ旅順へと急ぎました。このとき乃木中将は、陸軍大将に昇任していました。

17 旅順陥落
 3回にわたる壮絶な「総攻撃」、「死傷者の山」、「203高地の陥落」、「水師営の会見」はあまりにも有名なのでここでは割愛するが、乃木大将の次男保典も203高地の戦いで戦死しました。水師営の会見のとき、ステッセル将軍が「乃木閣下には、二人の子供さんを亡くしてお気の毒です。」というと「いや、私の家は侍の家なので、二人の子供達も晴れの死に場所を得て喜んでいます。」と笑いながら答えると「日本の将兵の優秀な事が今やっとわかりました。」と称えました。「勝ってもおごるな」乃木大将の武士道精神を知る第3軍全将兵は静かに整然と入城行進を行いました。         

18 乃木大将の戦後
 国は乃木大将を「日露戦争の英雄」「凱旋将軍」として迎えてくれたのですが、乃木大将はたくさんの死傷者をだしてしまった申し訳ない気持ちで一杯でした。帰国後、明治天皇に挨拶に上ったときも、「この際、割腹して、その罪をお詫びしたい。」と訴えました。
 
 しかし明治天皇は「乃木よ今は死ぬべきでない。死ぬならばこの私が世を去ってからにしなさい。」と労って下さいました。後日、乃木大将はこのときの明治天皇の言葉どおりを実行したのです。

 この後乃木大将は一人黙々と全国の遺族と傷病兵のお見舞いを始めます。廃兵院の創立には私財を投じて力を尽くしました。乃木大将は日露戦争の活躍によって、国から賞金8000円を頂きましたが、これで金時計38個を作らせて、将校の一人一人の労をねぎらって手渡しして歩きました。世間では「乃木さんの金時計配達」といってもてはやされました。将校以外の下士官兵卒には現金を分配して、残りは勝典保典の追悼祭典で全部使ってしまいました。      


19 学習院院長として
 明治天皇が「乃木も二人の子供を亡くして寂しかろう」とおっしゃって、乃木大将を学習院の院長に推薦して下さいました。明治天皇は日露戦争後の派手好みな世の中を心配して、乃木大将に子供達のための精神教育を期待されたのでした。乃木院長の教育方針は、戦場で苦楽を共にしたように、学習院でもいつも子供達と寝起きや行動を共にして愛情を持って育てようとしました。また、団体生活の大切さを教えるため、生徒は全員寮制とし、乃木院長も以後5年間、ずっと寮生活を続けました。
 
 乃木院長は更に授業面でも武士道精神を教えるために、日本古来の剣道や、柔道、馬術、射撃、遊泳などに力を入れました。今では世界の子供達に親しまれているボーイスカウトや冬のスキーも取り入れました。特に、剣道は全員必の正課として院長自らが稽古をつけました。

20 明治天皇の崩御と殉死
 明治45年、乃木大将が最も敬愛する明治天皇が崩御されました。明治天皇と近代国家を築いてきた国民にとって、この世の希望の光が一瞬にして消えてしまったようなショックでした。とりわけ、明治天皇を心の支えとして生きてきた乃木大将の悲しみは、目を覆うばかりでした。明治天皇が重病だと知らされてから、乃木院長のお見舞いも1日2回から3回と増えて行きます。普通の人は、宮中にお見舞いするとき記帳しただけで帰りますが、乃木院長は、一時間ほどお祈りしてから天皇のお側に仕える侍従武官に、天皇の御容体をくわしくきいて帰ります。乃木院長が度々お見舞いに来るので、天皇はその足音を聞いただけで、「また乃木が来た」とおわかりになったぐらいでした。
 
 7月30日、明治天皇はついに崩御されました。乃木大将は直ちに赤坂の門標を外して、公務以外は一切外出しないで哀痛の意を表しました。
 
 大正元年9月13日、この日は国民が明治天皇に最後のお別れをする御大葬の日です。日本国じゅうがこの日を深い悲しみの中で迎えました。夜になると、皇居前広場は一斉にかがり火が焚かれて、一層悲しみを誘います。明治天皇の葬列は、午後八時の弔砲を合図に出発することになっていました。

 そして、この弔砲を心静かに待っている夫妻がありました。乃木大将と静子夫人です。この日、乃木夫妻は二人揃って身を清めてから、午前八時に「イギリスのコンノート殿下に献上したいから」といって記念写真を撮りました。乃木大将は陸軍大将の正装に、静子夫人はしろ襟の黒のうちかけに袴をはいた姿です。このあと九時に、二人は最後の参内をしました。殯宮の明治天皇にお別れを告げ、宮中のあちこちを心おきなく見て歩きました。

 午後は、御大葬の拝観に上京してきた多くの来客と過ごし、やがて御大葬の時刻が迫ってくると人々は別れを惜しむように、乃木邸を出て行きました。女中も馬丁も葬列を見にいってしまったので赤坂の自邸には二人だけです。二人は「病気の理由」で、葬列に参列できないことを伝えてありました。午後八時、桜田門外の近衛砲兵隊が弔砲を撃ち、つづいて各寺院の鐘が一斉になり響きました。このとき乃木大将と静子夫人は立派な殉死を遂げました。乃木大将の気持ちを最もよく理解してくださった明治天皇と一緒に死ねたことが一番幸せだったのでしょう。
 
 「西郷隆盛も武士、大久保利通も武士である。しかし乃木大将はその上の武士である。」と後日、小学校6年生の意見が新聞に紹介されました。