4.丸亀城 中津万象園

            

丸亀城
 
 郷土史の第四弾は丸亀城とその城主のお庭である中津万象園(なかづばんしょうえん)を紹介しましょう。

1 由来及び概観
 丸亀城は、丸亀市のほぼ中央の亀山(標高66m、旧名波腰山)にある平山城で、別名亀山城とも蓬莱城とも呼ばれている。讃岐の国主・生駒親正(いこまちかまさ)が慶長2年(1597)から5年がかりで高松城の支城、西讃岐一円の要として創建し、その後1615年の一国一城令で廃城となったが、寛永18年(1641)に入封した築城の名手山崎家治(やまざきいえはる)が再建した。山崎家は3代17年で絶え、万治元年(1658)に京極高和(きょうごくたかかず)が入封、天守を完成させた後、南側にあった大手門を北側の現在地に移した。京極家は七代続き、藩籍奉還まで二百十余年にわたって丸亀を治めた。平成9年(1997)は丸亀城築城四百年祭が催された。
 
 数多く残る城郭の遺構の中でも「扇の勾配」とよばれる優美なラインを描く石垣はとりわけ見事である。内堀から見返り坂、三の丸、二の丸、本丸へと城山を覆いつくすように四段階に積み重ねられ、その高さは50m余りで日本一。天守閣とともに国の重要文化財に指定されている大手門から見上げれば、実に堂々とした風格で眼前に迫ってきます。
 
 山頂の本丸は東西約42m、南北約50mで、北部に天守が立つ。本丸を下ると二の丸、三の丸と続く。麓の北側正面に大手一の門、二の門、枡形、西側に藩主居館の正門だった御殿表門や番所及び長屋、土塀などが残っている。天守閣のある本丸からの眺めは東西南北共に素晴らしく、丸亀のシンボルとしてばかりではなく、世界一の瀬戸大橋の眺望スポットとしても脚光を浴びている。
 
 内堀以内が史跡に指定され、その範囲は東西約540m、南北約460mに及ぶ。外堀は現在市街地・道路に埋め立てられている。

2 天守閣
 江戸時代前期に建築された三層三階の天守で、全国に5000を越える城のうち木造の天守閣が現存する12城のうちの一つに数えられている。昭和十八年に国宝に指定されたが、昭和25年の法改正によって現在は重要文化財となっている。 屋根は南北棟の入母屋造りの本瓦葺、軒裏は丸垂木型総塗籠で波型になっている。一層目に石落とし、二層目の南北両面に唐破風、三層目の東西両面に千鳥破風を飾り、大手に面した北側には格子付きの大窓のほか、各層に狭間が設けられている。 東西六間(約11m)、南北五間(約9m)という規模は、現存する天守で最小だが、総じて北側正面(瀬戸内海方向)に対して威風を見せるように設計上あらゆる配慮がなされている。また、各層の逓減率が大きく、見事な石垣との構成美などから名城の一つに数えられている。現在厳冬期を除いて公開されており、内部も三階まで見学できる。


3 大手門
 [大手一の門]
 寛文十年(1670)に建築された正面櫓門で、二の門、桝形(ますがた)とともに城大手の守りを厳重に固めていた。生駒・山崎の時代は、城の正面が南側にあったが、京極家の治政になって北側の現在地を正面とし、大手一の門・二の門を構えた。旧藩時代には、楼上に太鼓を置き、城下に刻を知らせていたことから、太鼓門とも呼ばれている。
 
 入母屋造りの本瓦葺で、棟の両端に鬼瓦と鯱(しゃち)がそびえる。主要部分にはすべて欅(けやき)材が用いられている。一階は両側の石積みの間に五間の冠の木を渡し、六本の柱がこれを支える。正面の経中に囲まれた約四、四mの扉が左右に開き、通路となっている。扉の上のはねだしには六か所の石おとしも備えている。二階は内法長押、腰長押、土台などすべて白漆喰塗り、南北13間に東西三間の一室となり、東に八か所、北に四か所、西に二か所の窓があり、出入り口は西及び南面に2か所設けられている。
 
 [大手二の門]
 大手の外門で高麗門とも呼ばれる。建造は大手一の門と同時期の寛文年間と見られている。屋根は切妻造で、破風と軒廻りはすべて塗籠(ぬりこめ)、柱や腕木は素木を使用し、扉は両開きの板張りで、西側の扉に潜戸(くぐりど)がある。
 
 このほか、二の門と一の門の間に、南北10間、東西11間の桝形があり、城大手の防御のほか、表門にふさわしく大型の石垣を組み合わせ、威厳を添える工夫がされている。
 また、この枡形はいざ鎌倉の際には出動する兵の数を大まかに計る人升の機能も果たしたと伝えられている。

4 城主御殿表門・番所・長屋
 [御殿表門]
 大手一の門から西に向かうと、御殿表門の広場に出る。藩主居館の正門にあたる門で、昔は玄関先御門といった。広場は内堀側に土塀を巡らし、南側中央に堂々たる御殿表門が立ち、その西側に番所、長屋が続いている。 御殿表門は、五間一戸の薬医門形式で、北面中央に両開きの扉がある。切り妻造りの本瓦葺で、木割は太く、細部の手法にも江戸時代前期の建築様式の特徴がよく出ている。
 
 昭和四十二年三月から翌四十三年七月まで解体復元修理された折、本柱天端の小口割れ止め用に貼った古紙片から、「承応二年(一六五三)十二月龍野」とかかれた墨書が見つかっている。これは、播州龍野から丸亀に封ぜられた京極家のもので、御殿表門は大手門と同時期の建造であると認められた。

 現在、門内には城内市立史料館があり、城郭・城下町等貴重な資料が多い。
 
 [番所及び長屋]
 御殿表門の西側に接し、南面して立つ番所は藩主居館への出入りを見張ったところ。建物は切り妻造りの本瓦葺、桁行二間、梁間一間半、床は板張りで、天井のない簡素な造りになっている。
 
 南面は解放、東面の壁に御殿表門の本柱がある。この本柱をはさんで左右にのぞき窓があり、北側の窓からは門の外側、南側の窓からは内側が見える仕組みになっている。長屋の屋根には、入母屋の破風を飾り、軒廻はすべて塗籠で、南側に広い出口を設けている。                
 番所、長屋ともに、長年の風雪で傷みが激しく、御殿表門と同時に解体修理を行い、間仕切り、のぞき格子窓、御駕籠部屋、詰め所、交代部屋などが、創建当時の状態に復元されている。


※丸亀城伝説余話
 [石垣重三]
 丸亀城の石垣の優美さは、「扇の勾配」といわれる表現の通り天下一品であるが、この石垣はただ美しいだけではない。もちろん、石垣は戦術上の配慮が最も施されていて、そのため頂上付近では垂直の反りがあり、これが俗に言う「忍び返し」であり美しさもさる事ながら敵の攻撃を容易に撃退できる仕組みである。
 
 作者は重三衛門といった。石垣完成のおり、城主は家来を集めてこれを愛で、重三衛門を褒めたたえた。そして、誰かこの石垣を登れる者はいるかと呼びかけたが誰も挑戦する者はいなかった。そこで殿様は重三にお前なら登れるだろうと命じて、登らせた。重三は秘密を知っているので、するすると登って得意になっていた。殿様は心の中で「重三が敵に回ったら大変なことになる」と密かに恐怖を感じ、ある日井戸(二の丸)の修理を命じて、石を落として亡き者にした。
 
 [人柱豆腐屋]
 城を建造するには、永久に崩れないようにするため人柱(ひとばしら)を埋める必要があるということになった。それでは誰を埋めるかということが最大の焦点であった。ちょうど、城のまわりでは毎日豆腐屋が豆腐を売り歩いていて、彼に白羽の矢があたった。埋められた場所とかその真偽のほどはわからないけれども、丸亀城はこの何の罪もない豆腐屋の「人柱」のお陰で、今日まで四百年間も風雨に耐え、頑丈に健在しているわけであるが、今でも雨の日には、どこからともなく「と~ふ~」という声が聞こえてくるそうな・・・?。
 
 [抜け道井戸]
 二の丸・三の丸のほか城内には幾つかの井戸があるが、二の丸・三の丸の井戸は空井戸であり、底部に横穴がある。すなわち、お堀の水を井戸で汲み上げ、三の丸の井戸、二の丸の井戸と中継して本丸まで運び上げた。非常の際には、逆順で抜け道として利用可能。

 


5 中津万象園
 [由来及び概観]
 京極二代藩主の高豊は、貞享五年(1688)9月、藩祖の地近江八景と琵琶湖の島々を象って、下金倉村の海辺の中洲に別館を建て、広大な庭園、お茶所、魚楽亭、観湖楼などを造った。高松城の栗林公園とならぶ回遊式大名庭園である。高豊は城内から別館にでかけ、白砂青松の海岸や瀬戸内海に浮かぶ塩飽の島々、その間を行き交う船影などの風景を愛で、しばしば茶会や詩歌の宴を催した。 中津万象園と呼ばれるのは、書道・茶道に秀でていた旧毛利藩士で貴族院議員の野村素軒(1842~1920)が、京極侯の茶屋の額に「万象園」と書いたことに由来するといわれる。
 
 明治維新後、別館は京極家の手を離れて荒廃したが、多度津町の富豪竹田久太郎が所有し、金倉川の水を引き、太鼓橋をかけるなどして一般に開放し「中津公園」と呼ばれた。 中津万象園は、総面積が三四、九五九mあり、江戸時代の池泉回遊式大名庭園で、高松の栗林公園とともに県下に残る名園と並び称されている。現在は所有者の手で庭園の一角には美術館、陶器館、雛館などが整備され一般公開しており、園入り口には讃岐民芸品売り場やさぬきうどん処もあり観光客に親しまれている。
 
 入園切符売り場の前には、販売図書の万象園・丸亀・讃岐の歴史や八十八か所巡りの本が置いてあり、貴重な存在である。別館のうどん・食事処は、景色のよい庭を眺めながら食べられるし、値段も手頃なのに加えて、善通寺からは30分以内の近距離で無料駐車場も完備しているので、来訪した客を接遇したり、家族と散策するにも格好の場所ではないかと思われる。

 [中津御茶所]
 中津御茶所は、中津万象園内の西南、池泉のほとりにあり、茶亭と母屋の二棟からなっている。
 茶亭は、池泉に掛け出した茶室建築で、藁葺きの入母屋造り、柱は掘建ての草庵式で、池泉と好一対の風情を醸し出している。茶室わきの大笠松も見事なものである。
 
 茶室は四畳半で西側に床の間がある。床柱は清楚な孟宗竹、天井は太鼓張りの一枚天井、北と東に手摺のついたぬれ縁が回っている。ここから、近江八景に習ったといわれる回遊式庭園が眼下に広がり、丸亀城や讃岐富士、瀬戸内海の美しい景観が借景となって一望できる。
 
 母屋は茶亭の東隣にあり、茶客の待ち合いに使われていた。飛び石が簡素に配置され、庭にある樹齢約六百年の「傘松」が美しい。京極家は代々茶道が盛んで、藩士にも茶の道を極めたものが多く、中津御茶所はその象徴的な文化遺産である。