2.空海 (弘法大師)

            

空海(弘法大師)


 讃岐の郷土が生んだ大偉人空海(弘法大師)を知らない人はいないでしょう。    

それでは、その逸話と業績の代表的なところにスポットを当ててみましょう。

1 なぜ善通寺か
 我々は何も考えず「善通寺市」とか「善通寺さん」とか呼称しているが、知ってみれば驚くなかれ、実は「善通」は空海の父親「佐伯善通(さえきよしみち)卿」の名前を取って自らの生誕地に建てた寺の名前としたものである。何と言う親孝行であろうか。それは村の名前、町の名前、市の名前さらに駐屯地の名前にもなり、以来1200年のちも我々は空海のお父さんの名を唱え続けているわけである。空海の孝心の知恵や偉大というべきであろう。
 
 その善通寺のお寺の名前であるが、真言宗の総本山はもちろん高野山の金剛峯寺であるのに善通寺の大門にはなぜ「総本山善通寺」と書いてあるのかが疑問であったけれども、調べてみればなるほどその答は、空海の生誕地としての「真言宗善通寺派総本山」ということであった。

2 なぜ空海か
 果てしなく広い空と海。若き空海が京の大学エリート時代、人生に悩み、両親・恩師の期待を振り切って難行苦行の修行僧となり紀伊・四国の山々を巡り歩いたとき、彼の眼前に開けた境地、宇宙の表現が空と海ではなかったか。彼が修行のためこもったといわれる海岸や山奥の洞窟からも空と海がよく見える。 自然と生命の母体である空と海を眺めて、これを忘れないように自らの悟りの名としたにちがいない。この「空海」の名は、その秀でた能力とともに、のちに平安仏教創始者の最澄や、真言密教七代宗祖の恵果和尚や、時の嵯峨天皇にも認められることになった大いなる要素ではなかっただろうか。     

3 「大師は空海にとられ、太閤は秀吉にとられ」といういわれ
 太閤様といえば秀吉をさし、お大師様といえば空海のことをいう。ほかにも太閤はたくさんいるが、この称号は秀吉の専売特許であり、大師も伝教大師・達磨大師などいろいろあるが、少なくとも四国では「お大師さん」は空海の別名であると断言できる。
 
 しかし、この「弘法大師」は存命中の名前ではなく、入定後(死後)87年目にして醍醐天皇から高徳をしのんで贈られた諡号なのである。そしてそれから1100年もの間、「お大師さん」が続いているのである。
 
 空海は遣唐使の一行の留学僧として、わずか2年で真言密教をマスターしたばかりか天文・地勢・土木・医薬等の万能の知識文献を修得して日本に持ち帰り、全国津々浦々で様々の善行を施したので、彼の歩いた至るところで「法力」が生まれて「お大師さん伝説」が語り継がれている。

4 「弘法は筆を選ばず」
 空海は、書の達人でもあった。嵯峨天皇も筆の名手であったので、よく空海と書の交わりがあり、数々の門額や屏風に献筆させているほどである。空海の真言密教もさる事ながら、彼の書いた書も価値が高く、彼の「座右の銘」などは、親友や弟子が訪ねた時に懇願され、一字づつ切り取って授けたら、頂いた者はそれを持ち帰り、剃刀で字の一部分を削り取って、お茶にいれて飲み、その徳を慕ったそうである。
 
 もともと空海の語学能力は大したもので、遣唐使船で渡航した際、台風のため彼の乗った第二船が福建省の海岸に漂着して海賊船と間違われ上陸を許されず長時日拘禁されたことがあったが、その時も彼の書いた流麗な嘆願書が認められ、遣唐使一行として処遇を受けたのであった。
 
 また、驚くなかれ、漢字の音表文字ひらがな「いろは」やカタカナ「五十音字」も空海の業績なのである。

5 「同行二人」とは
 四国には八十八か所巡りというのが有名である。自衛官でも、特に四国外から赴任した者はこのときとばかり熱心に回る。四国出身者はいつでも行けると安心があるからであろうか、尋ねてみてもほとんどが「まだ」である。私も定年になったらゆっくりなどと甘い考えがある。

 そこで、「同行二人」であるが、八十八か所巡りお遍路さんの蓑傘や背中に書いてあるのをよく見かける。読み方は「どうこうふたり」と思っていた。意味も「八十八か所巡りは二人(夫婦)で行くのが理想的」などと思っていた。その原案は、「どうぎょうににん」であり「巡礼の道中はたとえ一人でもいつもお大師さんと一緒に行を積む」というわけであった。なるほど。しかし、これを知らないでせっせと回っている人もかなり多いらしい。私は回る前に正解が分ったので幸せというべきだろうか。

6 真言密教について
 空海の真骨頂は何と言っても真言密教である。修行僧時代に「大日経」と巡り合い、この勉強のため唐に渡った。頭角を遺憾なく発揮した空海は、唐の西安で恵果和尚から真言密教の象徴である曼荼羅・経典・経具を全て受け継ぎ、「遍照金剛」の法号を得て第八代宗祖となって帰国した。
 
 比叡山延暦寺で不動の地位を築いて天台宗祖であった7才年上の最澄から弟子入りの願いを受け入れるが、伝授方法をめぐって顕教と密教の本質的相違から絶交となり、高野山において平安仏教の片方の門柱を打ち立てた。嵯峨天皇が乱立する奈良仏教を統一すべく各宗派に対してその要目の提出を求めた際、空海は「秘密曼荼羅十住心論」を展開して「真言密教」が最も優れた仏教であることを論破してこれが認められるところとなった。
 しかし、鎮護国家の宮中祈祷から衆生救済の民衆仏教への脱皮を目指したものの、自らの修行求道を前提とした真言密教は、僧侶・貴族・大名の上層階級にしか受け継がれなかった。香川・四国においてすら現在も真言宗徒が少ないのはこのためといわれる。
 
 あるとき、真言宗のお坊さんが来隊したことがあり、ちなみに「真言宗の極意はなんですか」と質問したことがある。そのお坊さんは、即座に「真言宗の神髄は即身成仏です」と答えてくれた。その時はよくわからなかったが、のちに仏教の進歩をみてよく分かる気がした。当時の一般的理論では「仏教は来世のためのもので、この世で、みほとけによく仕え善行を積んでおけば死んだら極楽に行ける。」というものだった。
 
 これは理屈のわからない百姓庶民に対する仏教布教の方便であって、真実の教えは「人間は生まれながらこの身このまま成仏しており、この世の中がすなわち極楽そのものである。」なのであり、かくて空海は極楽浄土をあの世からこの世に持ち来たしたのだった。            

7 ウインクした大師像
 総本山善通寺の本堂は、南大門正面にある空海が建立した金堂である。そのご本尊は薬師如来であり、病気治しの仏様であって、第七十五番札所になっている。

 しかし、訪れる人は必ずこれよりも構えの大きく堂々とした西正面にある御影堂(みえいどう)にお参りする。いや、金堂が本堂である事を知らないで、御影堂だけにお参りする人も多いようである。そこに大師像をおまつりしているからである。

 それにはわけがある。実は、その大師像は空海の自画像なのである。空海が遣唐使船で出航するに際し母親の玉寄御前に形見として池に映る自らの姿を描き贈ったのであった。

 御影をまつってある堂であるので、これを御影堂というのである。そして、のちの土御門天皇がこれを拝した時、なんと大師像がウインクしたのである。以来、この大師像は「瞬目大師(めひきだいし)」という別名がついてありがたがられているのである。

8 湯川秀樹博士の空海・弘法大師像
 次は、湯川秀樹博士の言をかりつつ「空海像」を伝記的に紹介することにしよう。

(1)万能の天才
 延暦13年(七九四)、都は奈良から京都へ移った。平安時代の始まりである。同時に仏教界にも、新しい胎動が起こる。遷都10年後、延暦23年(804)、遣唐使船で唐へ渡り、大陸の新知識を持ち帰った二人の僧があった。天台宗を開いた最澄、そして真言密教を開いた空海であった。特に空海は、単なる一宗教家にとどまらず、日本文化の巨大な推進者となった。
 (湯川)「まあ長い日本の歴史の中でも、空海というのは、ちょっと比較する人がないくらいの万能的な天才ですね。そこまでは最近、再認識されだしたが、私はもっと大きく、世界的なスケールで見ましても、上位にランクされるべき万能の天才だと思うのです。世界的に見ましても、アリストテレスとかレオナルド・ダ・ヴィンチとかいうような人と比べても、むしろ空海のほうが幅が広い。

 また当時までの日本の思想・文化の発達状況を見ますと、思想・芸術、それに学問・技術の諸分野で時流に抜きんでていた。突然変異的なケースですね。」 弘法大師が杖を立てた所に、池が生じて田を潤す。そうした類の伝説がきわめて多い。その出生地、香川県をはじめ、全国いたるところに、弘法大師伝説は五百を数えるという。

 そうした中で、香川県仲多度郡満濃町に残る満濃池は、周囲20キロに及び、この巨大な池の修築工事は空海の数ある業績の中でも、確かな史実として伝えられる代表的なものである。空海は、宗教的であることはいうまでもなく、偉大な社会事業の実践家であり、更には土木技術者としても、当時の第一人者であった。高い水圧に耐えられるように、空海は堤防をアーチ型に築いて効果をあげた。彼が科学知識にも通じていたことを物語るものであろう。        

(2)唐へ渡る
 空海が生まれたのは、宝亀5年(774)、讃岐の国屏風ヶ浦(びょうぶがうら)、今の香川県善通寺市、気候温暖な瀬戸内地方である。彼は土地の名門佐伯(さえき)氏に生まれ、幼名は真魚(まお)と呼ばれ何不自由なく育った。幼い頃より学問の道に志し、ことに当時一流の学者であった母方の伯父、阿刀大足の薫陶を受けた。

 (湯川)「先ほど申しましたように、空海は突然変異的に出現している。まあ、生まれた家庭は大変いいめぐまれた環境だった。したがって、空海の幼い時の環境がよかったという条件は満たされていますね。それから京都に出て来て大学で学ぶ。当時もやはり、中央のエリート官僚を養成するための大学があったわけです。大学へ入れるということは、やっぱり官吏になるということが目的だったわけです。

 郷里の親とか親類とかは、空海が官吏として、出世コースをどんどん進んでほしいと思ったでしょうけれど、彼自身は、その段階で非常に悩むわけですね。まあ18才の頃ですから、人生とは何かと考えたわけでしょう。そして結局、大学を中途退学した。出世街道から離れて、人間が生きていくというのは、どういうことかを考え直そうと思った。人生に対する非常に深い悩み、疑いを解決しようと思ったわけでしょう。」
 
 空海の生涯で、大学をやめたあとのおよそ10年、その20代はほとんど空白、謎の時代とされる。ただ、四国・近畿あたりの山々を渡り歩いて、厳しい修行と学問の道に励んだことが伝えられる。そして空海は、24才の時の著書「三教指帰」で、儒教・道教・仏教の3つの教えを比較し、自らは仏教の道を選ぶことを決意している。
 
 とにかく山あいの岩窟などに閉じこもり、彼は、憑かれたように仏教の経典を読みあさったらしい。ことに険峻な阿波大滝峯、怒濤の土佐室戸岬での、彼の厳しい修行は有名である。
 31才の時、彼は唐への留学生(るがくしょう)に選ばれた。一介の無名の僧が、なぜ留学生に選ばれたかは明らかではないが、おそらく彼の抜群の学識が認められたことは確かであろう。当時中国へ渡ることは、命懸けの冒険であった。空海を乗せた遣唐使船も、途中暴風雨に遭い、流されてようやく辿り着いたところは、目的地よりはるか南の福州であった。時ならぬ異国の船の到来を怪しんだ地元の役人は、その上陸を許可しなかった。

 そのとき空海が旅の苦渋を綴りながら、切々と訴えた嘆願書は、名文の聞こえ高いものである。その見事な文章に感嘆した役人は、快く一行を受け入れた。日本からはるばる4000キロ、7か月の旅路を終えて、空海はついに唐の都長安に達した。

 広く東西文化の交流が行われた当時の長安は、まさに世界文化の中心であった。ここで空海は、貪欲なまでにあらゆるものを吸収したのである。仏教はもちろん、美術・工芸・最新の科学技術・医学、全てを彼は学び取った。それを可能にしたのは、彼の天才的な語学力であった。

 日本にいるときから、既に中国語に堪能であった彼は、長安で更に、インドの言葉サンスクリットも覚えたという。そして唐へ渡ってから2年後、彼は世界最高の文化の粋を祖国に持ち帰ったのである。いわば巨大な空海コレクションともいえるその唐からの招来品は、仏像・仏具・仏典をはじめ膨大な量であった。その多くは、現在京都の東寺に保存されている。

 (湯川)「空海はとにかく非常に好奇心が旺盛で外国のものをなんでも取り入れる、非常に思考が柔軟というか、寛容というか、単なる理論、つまり『肯定』『否定』の理論だけで彼は考えるんではなくて、全てのものを取り入れて体系づけるあらゆるものを捨てずに何とか拾い上げて、自分の体系に組み入れようとする。とにかく幅広くなんでも取り込んでしまうところがあるんですね。」

(3)密教文化の父            
 平安遷都よりおよそ10年後、唐から帰ってきた空海は、しばらく九州にとどまるが、やがて嵯峨天皇に認められるところとなり、京都に上り高雄の神護寺、更には東寺を中心に、精力的な活動を展開することになる。今も京都駅の近くに、壮大な伽藍を誇る東寺である。

 それは、奈良平城京の東大寺に匹敵する新しい都、平安京のシンボルでもあった。朝廷より鎮護国家の根本道場として東寺を預かった空海、その名声は全国に広がり、人々の崇拝するところとなった。東寺は、空海が日本にもたらした密教文化の宝庫である。極彩色に彩られた曼荼羅(まんだら)は、密教の世界観を示す代表的なものであるが、それはそのまま空海の思想でもあった。
 
 空海の生んだ密教文化は、また実に多種多様の仏像を後世に伝えている。憤怒の形相をした不動明王に代表される密教の仏像は、優しく慈悲深い仏像のイメージとはむしろ対照的で、何よりもその目に訴える力強さ、生々しさ、たぎるような躍動感が特徴的である。

 (湯川)「彼は理論だけでなく、やはり視覚的といいますか、あるいは、パターンといいますかね、あるいは形のあるもの、造形を媒介としてものを考えるから、思考が二次元的、三次元的構造をもち、思想が立体的に体系化される。それがまた特色ですね。
 
 たとえば、曼荼羅というのも思考のパターンですね。しかし、それがまた実在世界がそこに投影されているような性格を持つ。だから、そういう二重性格をはっきりさせるために金剛・胎蔵の両界曼荼羅を並立させるのじゃないか。一般に天才というものの思考の発展を見ますと、表向きは言葉に理論で押していくように見えて、実はそれを推進するものはですね、やっぱり何か、そういうイメージの思考みたいなものですね。近世の西洋の大天才であるデカルトも、そういうことをしきりに言っていますね。」

(4)自由な表現
 空海が優れた書家であったことは、だれもが知るところである。弘法筆を選ばずというが、実に彼は字体に応じて様々な筆を使い、そしてあらゆる書体を書きこなした。格調高い筆跡の「風信帖」は空海の書として最も有名である。空海の素顔がうかがえるような「灌頂歴名」や、様々な書体が交じりあった「益田池碑銘」や、昨今の前衛書道かと思われるような斬新な筆致の「座右銘」がある。

 (湯川)「空海は三筆の一人として知られていますが、おそらく日本一の書家でしょう。彼はあらゆる字体を取り入れて、それを自由にこなして、後世、大師流といわれるような書体を生み出したわけですね。

 また、益田池碑銘をよく見ると、字の中に絵がある。人や鳥などがいる。見ていて実に楽しいですね。人間が生きて行くということは、宇宙的生命力の自己表現に他ならないという言い方がピッタリするのじゃないかと思うんです。」

(5)初の私立総合大学
 彼の旺盛な活動力は、教育面にも及んでいる。新設した「綜芸種智」つまり「あらゆる学芸を総合して完全な知識を植えつける」ための綜芸種智院は、庶民に開放された日本で最初の私立大学であり、総合大学であった。

(湯川)「総合大学という意味はですね、空海にとっては仏教が正統な教学ですが、それだけには限らないんですね。仏教も教えるけれども、しかしそのほかの儒教であれ、あるいは学問・文芸であれ、中国のいろんな知識・技術、そういうものをみんななんでも学べるようにする。

 しかも、貧乏な人であっても、才能さえあれば、そこで勉強できるように給費生的な制度も考えていた。実際彼は、それを実現して、どれぐらいの規模であったか知りませんけれど、20年程は続いたようですね。20年後には彼は死んでしまっているので、とてもそういうものは維持できないわけですよ。」

(6)生命の思想
(湯川)このように空海を見つめていくと、尽きることのない、人間離れした、巨大なエネルギーの持ち主だと感じさせられるのですが、しかしながら、彼は本来は、山へ登ったりしているように、やっぱり自分は自然の中から生まれて、また、自然の中へ帰っていくのだという気持ちがあって、特に晩年には再びそれが強くでるわけですね。

 ですから、やはり若い時から、エリートコースを歩んで出世することは、自分の人間としての本当の生き甲斐ではないと思っていた。彼にとっての生き甲斐は、真理を体得することで、真理を体得するということは、世間的に出世する事とは違うという考えが、彼の青年時代からずっと彼の中にあったんだと思いますね。」
 
 幾重にも連なる紀州の山並み。その奥深く、高さ1000メートルのところに突如開ける盆地、高野山。今日の町の雑踏を離れて、空海は最後にこの地にこもった。今この高野山には百幾つもの寺がある。空海の教えを学んで、多くの僧侶たちが、修行に励む、真言密教の聖地である。承和2年(835)空海入定。62才。僧侶の死を普通は入滅もしくは入寂というが、空海の場合だけは特に入定(にゅうじょう)という。その意味するところは、深い瞑想の中に、弘法大師は今も永遠の生命を生き続けているということである。それは生命の思想家といわれる空海に、いかにもふさわしい。

 (湯川)「私はずっと物理をやってきたわけで、物理という学問は、精神のほうからではなく、物質のほうから入っていく。ところが空海の場合には、生命というものに対する関心が非常に強いように思われますね。それは個々の人間とか、他のいき物に対する関心であると同時に、その背後にある宇宙的生命というものを非常に強く意識している。そういう点はやはり東洋的ともいえるでしょう。非常にバイタリティーのある生命ですね。」 
                                   おわり